甘い束縛 


仕事終わり。金曜日とはいえ浮かれより疲れが先行する中、目の前の男は今日も今日とて惚気を吐きにやってきた。初めこそずっと彼女の一人も出来なかった稀代のモテ男にもとうとう春がやってきたかと素直に祝福した。けれど華金だというのに彼女にも会わず嬉々として私の家へ来て惚気る様にこちらは飽き飽きとしていた。というより冷静に考えれば特定の女を作らなかったクソ野郎がやっと腰を落ち着けたと言うだけの話なのだ。祝福なんてしてやる義理もない。

「……聞いてんのか」
「あー、はいはい聞いてますよ。そんなに彼女が可愛いなら私のとこじゃなく彼女のとこ行けば?」
「おれがどこにいようが自由だろ」
「それが人ん家で寛ぐ男のセリフか」

 飽きると同時に不本意なことに――本当に不本意なことに、私はこの男、トラファルガー・ローに彼女が出来たと言う話を聞いてから、この男に恋をしていたのだと自覚してしまった。今までの余裕は特定の相手がいなかったからこそのものであり、私がこの男を好いていないことの証明ではなかったのだ。
 もう少し早く気づいていればと後悔するも時すでに遅し。早く気づいたところで関係性が変わったかどうかは分からないが今より後悔の気持ちは少なかったはずだ。
 ビールを飲み、ツマミにと買ってきていたピーナッツに手をのばす。めんどくさいし今日の晩御飯はこれでいいかとさえ考えている時点でローの言う彼女には敵わない気がする。
 ロー曰く、彼女は何をしても可愛いらしい。彼女の姿を見るだけで仕事の疲れが取れるとか何とか。どんな癒し系彼女だ。そんなヒーリング能力は残念ながら持ち合わせていない。リビングで一応客人であるローをもてなすどころか適当にスーパーで買ってきたお酒と皿に盛っただけのツマミを出しているだけの私では癒しをもたらすどころかハナから同じ舞台に立てそうにない。
 私の絶望をよそにそんな気も知らないローはビール片手に惚気を吐く。一緒に動物園に行った話や海に行った話を聞く度に私の中の何かが確実に削れていった。私とローも学生時代ペンギンやシャチといったおまけはいたものの、動物園も海も一緒に行ったことがある。それは私の中で大切な思い出になっていたのだが、ローにとってそれらの場所はもう彼女との淡い思い出の場所へと様変わりしているのだろう。なんとも虚しい話だ。
 しょっちゅう惚気を聞かされるうち、彼女の言動の一つ一つがローのツボに刺さるのだろうと察するのも辛い要因のひとつだ。同時にそれが羨ましくて仕方が無い。逆立ちしたってローに可愛いと思ってもらえる要素が思いつかない。今更取り繕ったところで無駄と諦めてしまうのも無理はないと思う。
 
 いつ知りあったかと聞けば社会人になってから職場で、と。ローは医者であるから、それはつまり女医か看護師にあたる。可愛いうえに頭も良けりゃ私の出る幕なんて益々無くなってしまう。この前も誕生日にケーキを作ってくれたと嬉しそうに目を細めて言うものだからこっちの胃が痛くなった。私もローの誕生日にケーキ……というかスティックケーキをあげたがそれとは比べものにならない出来に違いない。仕事が忙しいローの事を考え、手を汚さず食べられるようにとパッと渡したスティックケーキと違い、彼女はローの家か、彼女の家でケーキを焼き、一緒に食べたのだろう。想像だけで泣けてくる。

「お前は男作る気ねェのか」
「そうだね、しばらくはね」

 どいつもこいつも彼女だの彼氏だの出来た途端勧めてきやがって。恋愛なんてクソ喰らえだ、私は仕事に生きると決めた。もうしばらくはローの事を諦められそうにない。私に残された道は仕事しかなかった。こんな時に無理に他の男を探してもろくな男に引っかからない気がする。

「好みの男とかいねェのか」

 早くこの話題を終わらせたいのにローにその気はないようでどんな男が好みかとしつこく聞いてくる。いっそ貴方ですと告白すればどんな顔を見せてくるのやら。
 いつもより早いペースで次の缶を開けて煽る。このまま酔って理性を飛ばせば楽になれるかもしれない淡い期待と翌日以降の自分の羞恥を天秤にかけ、絞り出した答えはいつもと変わらない誤魔化しの言葉だった。

「……いないよ、しばらく恋愛はしない」
「しばらくってなんだ、失恋でもしたのかよ」
「さあね」

 まったくもってデリカシーのない男だと内心憤慨する。ローは酒に呑まれた人間特有の焦点の定まらない目で適当なことをと私を詰った。何を憤っているか知らないが怒りたいのは私の方だ。もういい加減帰ってもらおうと立ち上がる。時計の針は23時30分より少し前を指していた。私の家から駅までは徒歩で15分ほどかかる為そろそろ出ないといよいよ不味い。そのまま向かいに座っていたローの所まで歩いていって腕を掴んだ。

「ほら、もう帰って。終電無くなっちゃうよ」
「タクシーで帰るからいい」
「駄目だって。彼女がいるのにただの友達とはいえ女の家来てるだけでもアウトなんだよ? その上終電過ぎまでなんて絶対駄目」
「なんだ、意外と嫉妬するタイプか? お前」
「あのねえ……」

 実に楽しげに、かつ挑戦的な口調で私を見上げるローにいたたまれなくなる。嫉妬なんて、気持ちを自覚してからずっとしてきた。彼女が出来たと聞いて早一ヶ月。これ以上は本当に駄目だ。たった一ヶ月の間に恋を自覚して失恋して嫉妬して散々感情を振り回されてきた。目まぐるしく変わる感情の変化にとまどう私をいっそほおっておいてくれたらいいのにローは彼女ができる前と変わらず接してくるから困りものだ。
なんと返答していいか逡巡する私に更に追い打ちをかけるように掴んだ腕が離されて逆に捕らえられてしまう。そのままするりと私の手のひらをくすぐるローに身震いした。

「どうせ嫉妬するならもっと分かりやすくしろよ」
「何に嫉妬するって言うのよ。私はただ一般論として」
「気づいてねェのか? お前がおれを見る目」

 引き寄せられ、ローの吐息が耳にかかる。耳も顔も触れる体温も何もかも熱いのはお酒のせいだ。だからこれは決して本心ではなく、酒に吐かされたうわ言。

 ――おれが彼女の話題を出す度嫉妬に狂う女の目をしてんだ。

 咄嗟に腕を振り払おうとするのに解けない。火事場の馬鹿力なんて嘘じゃないか。逃れたいのに逃げられない。

「し、っとするのは彼女でしょ? 私はそんな」
「なァ、まだそんなこと言ってんのか? おれに彼女が出来て一ヶ月だ。そろそろ自覚してもらわねェとこっちの我慢にも限界があるんだが」

 我慢ってなんだ。この男は何を訴えかけている。私に何を求めているというのだ。何故そんな怒った顔をする。怒りたいのは私だ。好いた男に彼女がいてしょっちゅう惚気を聞かされる私の気持ちこそローは分かっていない。

「自覚って何? ほんと、ふざけてないで早く帰って」
「ふざけてんのはお前だろ」
「さっきからなんなの? 私にどうしろって言うの」
「なら聞き方を変えるが、お前おれに彼女がいると聞いてどう思った?」
「別に……おめでとうって、それだけ」
「惚気を聞かされて違和感は」
「だから、さっきから何……」
「質問してんのはおれだ」

 さっさと答えろなんて。そんな圧をかけられてもまだ出すべき答えが分からない。もしかして、と思う気持ちがふと湧いたものの確信は持てなくて話を逸らすくらいしかできそうになかった。

「楽しそうでいいねって、それだけ! 話なら今度また聞くから!!」

 引き寄せられた体勢を起こそうともがこうとしたところでローが私の両手をそれぞれの手で絡め取り体ごと壁に追いやられる。足で体を挟まれ心身共に追い詰められた。

「今からやることに不快な気持ちしかねェなら舌でもなんでも噛んで抵抗しろ」
「は? ……んうっ」

 顔を違わせた状態で唇が重なり間抜けに空けていた口からローの舌が侵入してくる。噛めなんて出来ないの分かってるくせに。こんな形でローとキスなんてしたくなかった。頬をつたう涙は息苦しいからだ。ローが好きで苦しい。彼女がいるなんて言わないで欲しかった。そんな遠回りじゃなく真っ直ぐ私を見て欲しかった。

「……泣いてんじゃねェよ」
「ロー、のせい、でしょ」
「これでもまだ自覚がねェと?」

 違う。自覚がありすぎるから涙が止まらないのだ。睥睨するローに張り合って今度は私からローの唇に噛み付いた。首裏にローの手が回る。焦がれていたローに触れられる多幸感を少しでも長く味わいたくて空いた手でローを引き寄せた。初めて触るローの髪に自分の中の何かがせり立てられる。早く確かなものを頂戴。そうしたら嘘も何もかも許してあげる。
とうとう息も絶え絶えになり距離を離す。間を繋いでいた唾液が切れ、それでもお互いの息が交わる距離は保ったまま今度は私からローに質問を投げた。

「彼女がいるって、嘘?」
「ああ」
「職場でって、いうのも?」
「そうだ」
「なんで、嘘ついたの」
「なまえが中々自覚しねェから」
「だからってこんなやり方ないじゃない」
「実際自覚したのも彼女がいると聞いてからだろう。その前に告白してもよかったがそれじゃ時間がかかりそうだからやった」

 全く反省の色が見えないローの頬を引っ張った。

「もう二度とこんな嘘つかないで」
「なまえがおれから離れねェと誓うなら」
「離れないよ」
「どうだか。おれが誘ってもペンギンとシャチにも声かけるくらいだからな」
「それは、自覚する前だったし……」
「だからだろ? 何回誘っても気づきゃしねェ女を早く手に入れるには嫉妬に狂わせるくらいしかねェんだよ。次誘った時他の奴らに声掛けたらこんなもんじゃ済まさねェからな」

 言って首筋に付けられたのは甘い束縛。

「誓う、誓うから……。だから、ちゃんと言葉がほしい」

 焦らして嫉妬させられた分確かなもので心を埋めたくてローの胸に頭を押し付けた。頭に心地よい重みが乗って囁かれたのは私が一番望んだ言葉。
 誓うと言ったって離れられないのは私の方だ。だから今は素直に伝わる熱に浮かされていたい。

「もうこれでおれが帰る理由はねェな?」

 酔いはすっかり覚めてしまったけれど、別の熱に浮かされて今夜は眠れそうにない。


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